社長の金型業界ブログの最近のブログ記事

日本経済の高度成長期も過ぎて、もともと本格的な重工業の製鉄会社まで存在して工場地帯であった江東区も様変わりを見せ、終の棲家の積もりで建築したこの工場も地域指定が住居地域に変更される頃には周囲住民からの苦情が持ち込まれる始末(残業は多いのはこの産業の宿命でした)、またまた移転を真剣に検討せざるを得ない状況に追い込まれて居たころ、昭和60年代初頭からの例の土地バブルが話題と成り我々にもその兆候が充分判る時期が、操業の継続が難しくなった時期と時を同じく重なる時代でした。

工業会東部支部城東地区のメンバーと新庄工場にて 工業会東部支部城東地区のメンバーが日本海「湯の浜温泉行」の途上弊社新庄工場に立ち寄って戴いた際のもの、今は懐かしい方々も。

ここで当時の金型作りの様子を簡単に説明して置きます、先ずは硝子型について;型材として大部分が「ねずみ鋳物、所謂砂鋳物」です、型の注文を受けると形状に即した雄形形状の木型を作り鋳物業者に依頼します、普通砂鋳物は粒度が粗くて型用には不向きですが表面密度を上げる為鋳物の表面を急冷して(冷やし金を当てると言う、この作業により表面5ミリ位の密度が高くなる)型材として採用します。

この鋳物業者が江東地区は何軒かあり週に何日か決めて鋳物を吹(鋳造する事)きます、当日は早朝に鋳物をこれまた自転車で引取りに行き始業までに用意して置くのが小生の分担でした、冬季早朝の引取りはつらい作業で今でも忘れられません。特に生産LOTの大きいものは13クロム系ステンレス材の鋳造品あるいは鍛造材を使用して型彫りをして完成をみます、当然こちらの方が型費も上記に比して5割程高価だったと記憶しています、当時手掛けた製品群を列記しますと「ビールジョッキ等硝子食器、角型ヘッドレンズ、高速道路用街路灯レンズ」等、今にして思うときあの設備でよくも作れたものと感心します、これらの分野は石膏で作ったモデルを使用して「倣いフライス盤」が大いに活躍したものです。


プラ型について;型材として弊社では全てが50〜55Cで黒皮の素材から全て社内でモールドベースの製作をしました、初期の頃はガイドピンをも自社製作で現在の様に組み上がったモールドベースの形で外部調達したのは大分後の事(昭和40年後半)従って全てがCAVに直彫りスタイルの型作りです。

昭和46年4月竣工

取引先にも恵まれ設備も増設されるに至り大島8丁目の工場もやがて手狭になり再度何らかの展開をする必要に迫られて居た折に近隣に110坪程の適地があり、この地を終の棲家?(工場)にする積もりで重量鉄骨の2階にも工作機械の設置可能な設計で基礎にパイルを打ち込み本格的な工場を建設、昭和46年4月竣工のことでした。

この頃には型作りの工作機械にも大きな変わり目を迎え、数値制御即ちデジタル化の到来です、弊社でもNCフライス、放電加工機、ワイヤ放電等、此れは同時に会長の「鏨」の時代の終焉です。往時業界の様相と言えば今では想像もつかない完全な売り手市場、弊社クラスの町工場にさえ著名な企業の調達担当者が三顧の礼?を尽くす始末、需給のバランスが取れてないが故の主客逆転の時代、故に其の頃の思い上がりが現下の業界の惨状を齎したと自嘲気味に話をする事があります、然しながら受注に苦慮する必要の無い時代も第1次オイルショック(今でも過去の映像としてTVに写るトイレットペーパー買出し風景、昭和48年頃)の頃から少しづつ変化が生じ世間並みに営業活動が必要な時代となり小生が外、会長が内の守りと自然な棲み分けをしてプラ型専業メーカーとして客先の信用を得て業績を伸ばしつつ昭和50年代を迎えます、時を経ずして第2次オイルショックに見舞われますが前回の学習効果が充分に効いて長期の混乱も無く終息を見ました。当時の小生はと言えば新宿の理工系の夜学(無事卒業)に通ったり、はたまた合間を縫っては紅灯の巷を徘徊もしつつ良き時代ではありました。

第三章へ続く

中国昆山金型工場竣工式

「12月8日」この日を見聞きして感慨に耽る日本人は今や僅かな存在であり、ましてや実体験として語れる方々は最早皆無に等しい筈です、斯く言う小生も歴史で学んだ日米国人をして「リメンバーパールハーバー」と言わしめた即ち太平洋戦争真珠湾攻撃の日であります、然しながら我ら兄弟にとりまして(ムトウ現会長)生涯忘れえぬ日、正に1961/12/8の一日であります、待ちに待ったこの日やっと動力線引き込み工事が完了、ベルト掛け6尺英式旋盤(東京田端中古機械店にて時価60万で入手)用に架けた櫓上のハズミ車付プーリーを3馬力モーターがけたたましく回転した日であります、(この騒音の因は全て我々の手作業のためプーリーを通したシャフトの水平等が出てなかった為と思われる)この日会長23歳、小生20歳、昭和36年師走、爾来10年本機は弊社にモーター直結旋盤の導入される迄共によく働いて呉れました、役割を終えるに当たり今は亡きお袋が感謝の気持ちに替え清酒でお清めの後廃棄業者に引き渡した想い出が有ります。


創業の地、東京都江東区大島5丁目所在のこの建物は敷地10坪程の2階建て仕舞屋で3年契約の借家、この場所が区の計画道路内と言うことで居住は但し最長3年限り敷金、権利金なし、如何様な改造もOK、原状復帰工事不要の好条件の借家を不動産や巡りをして探し当てた物件では有りました。


創業当初は現在のプラスチック用金型ではなく硝子金型の「押し型」の製作に従事して、これは会長が所謂日本の徒弟制度最後の時期を過ごして習得した職人技(主に鏨を駆使した手彫り作業)の産物であり当時の機械設備が上記英式旋盤、シェーパー、ベンチボール盤だけでは完成を見ないものでした。


さて8日にモーターが回って操業開始、最初のお客様は硝子成型の町工場でした、当時の硝子工場の稼動状況と言えば午後2〜3時頃で終業その後は翌日の作業の段取りが日常作業、当然ながら金型の修理、メンテナンスはその日に済ませ深夜までに納入して明日の作業の為準備する必要があります「武藤硝子金型製作所」の出番です、硝子工場は深川海辺町に所在し往復1時間半の道のり毎夜自転車の荷台に金型を積んで2〜3往復深夜の工場に搬入、その年の暮れに初めて書いた請求書の金額が約¥70万強、今でも鮮明に蘇えります、当時大卒初任給¥2万弱の時代でした。


而して家主の好意に報いて2年半にて創業の地を去り同じく大島8丁目に敷地70坪程の借家に移転ここに面積30坪の木造工場を建築、創業以来手掛けている硝子金型と新たにプラスチック金型分野に進出、正に怖いもの知らずの時期、今その当時に作った金型を思うときに赤面を禁じえません、時を同じくして従業員もぼちぼちと増え、垂涎の的の牧野製倣いフライス盤の導入も果たした頃、牧野フライス先々代社長が(専務時)愛車ルノー?のフロントトランクに連動サーキュラーテーブルを積み自ら駆って納入に見えられた頃では有りました、今にして思えば隔世の感深くするところではあります其れにつけても世間が周囲がおおらかで寛容でした。


第二章へ続く。

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